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われら仙台人

December 2008
今徳酒店「今井喜代」さん 【われら仙台人】

ぶらんどーむ一番町を電力ビル方面に折れて少し歩くと、巨大な欅の一枚看板がずらりと店内に飾られた今徳酒店へ─。店主のお母さんである今井喜代さんは、生まれも育ちもチャキチャキの一番町っ子。大正8年生まれということで、様々な一番町を見て来られたそうです。今井さんの闊達な口調に耳を傾けながら、時空を越えて、ちょっと昔の「番ブラ」を楽しんでみましょう。

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●アセチレンガス灯の明かりに照らされた一番町

――今井さんがお育ちになった頃の一番町は、どんな感じでしたか?

当時の一番町は今よりもずっと狭いのに、真ん中を車が走っていました。大町の通りも当時はバス通りです。お店同士はまさに家族ぐるみのおつきあいで、今でも、昔からの顔はぜんぶ分かりますよ。

今でも藤崎さんの向かいにお店を構える大内屋さんは、このあたり一帯の大地主さんでね、昔は立派なお屋敷が近くにありました。「八木山」を開発された、八木さんの油店も一番町にあったんですよ。

今の日銀の隣、ツルハドラッグ裏にあった菅原美容院には、菅原たつさん、・・・通称おたっちゃんって呼ばれた「お嫁さん作り日本一」といわれる有名人がいました。着付から髪の結上げまで、とても早くてきれいに仕上げましてね。東京の帝国ホテルにも呼ばれていたほどなんですよ。とても芸達者な方でした。

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大正末期~昭和初期頃の一番町。今井さん手書きの地図。

――かつての一番町は商店街の皆さんにとって生活の場でもあったようですね。どんな思い出がありますか?

当時は子どもがいっぱいいて、夏休みには、晩ご飯を食べてから子どもが外に出て来て遊んでましたね。大正末期から昭和初期の夏は、毎晩、アセチレンガスの明かりを灯した夜店がたくさん出まして。

藤崎の辺りには小間物や古本、今のサンモール一番町の方には野菜や植木の店が出ていました。雨の降らない夜は、人がいっぱい出て来て、本当に賑やかだったんですよ。

今のフォーラス前と藤崎一番町館前には電柱が立ってましてね。子どもたちには格好の遊び場でした。二手に分かれて電柱につかまり、左右から出て行って真ん中でじゃんけんするんです。負けると相手の電柱の捕虜になるのがキマリ。

捕虜になっても、味方が助けに行って仲間にタッチすると取り返せるの。それで、道をいっぱい歩いていた客の背中に隠れて近づくんです。昔は着物姿が多くて、これが案外隠れられるのよ(笑)。そういうのを毎晩、やっていました。アセチレン灯の匂いと一緒に、今でも思い出しますよ。

●いきいきと助け合って乗り切った戦後

――戦争を乗り越えた後の一番町の様子はどうでしたか?

戦争中もお店は開いていましたが、仙台空襲の焼夷弾が一番町を焼き尽くしてしまいました。天守台の方に軍隊の第二師団があった事もあって、このあたりの空襲も激しかったんですね。

当時、隣組といって5、6軒ぐらいが組になりましてね。戦後も助け合って暮らしました。そして食料などの配給があると等分するんです。お魚なんて一軒に一切れになってね(笑)。それでは足りないから、みんな郊外の方に出掛けて行って、農家から、物々交換でお野菜やお芋を分けてもらうんです。私も遠くまで歩いて行きましたよ。欲張っていっぱい背負ってきたら、3日ほど立てなくなりましたけど(笑)。

今の青葉通りの辺りは焼け野原になりました。でも、間もなく農家の方たちが屋台を建ててね、お芋と小豆に人工甘味料を入れて煮たものを1杯1円くらいで売ってたんですよ。昭和21年の頃で、預金封鎖が行われて銀行からは1人3000円しか下ろせなくったりしてね。食べたくてもいろいろ物入りだからと、我慢したのが口惜しかったですね(笑)。

―― 一番町の人たちは、食料を確保するのも一苦労の時だったわけですね。

みんなが、農家の方と物々交換して何とか食料を手に入れていた時代です。面白いのはね、私達は絹の着物の方が沢山食糧と交換できると思って農家に持っていくんです。すると、駄目なんですよ。農作業の着物やモンペは木綿で作るでしょ?だから木綿のほうが喜ばれて、いっぱい取り替えてくれるんですよ。

当時は頼れるのは自分だけという時代だったから、皆が不安を感じていたんだと思いますよ。だから、食べるにも困る時代だったのに、占いなども繁盛していましたね。今は壱弐参横町になっている、闇市があったところにもね、手相見のおばさんが1人で座ってらしたの。みんなが先を争って並び、とても繁盛してたのを思い出しますよ。

――戦後になると、一番町もどんどん変わっていきましたね。

なくなったり、場所が変わったものもいっぱいありますよ。今、フォーラスの上に和霊神社があるでしょ。この神社はもともと、旧電力ビル近くの仙台藩家老・山家(やんべ)さんのお屋敷の中にあったんです。昔は、通りの軒先に花飾りを刺したりして、賑やかにお祭りをしたんですよ。

当時、その辺りは朝鮮の方も住んでいたんですが、その方々も段々に引き上げていきましてね・・・。主人は残っていた売掛金を餞別として差し上げる事にしたんですが、港から心のこもった礼状をもらったりしてね。お別れの時は寂しかったですよ。

その後、一番町は区画整理で道路を広げたんですよ。その時は、お店やビルを建物ごと移動してひっこめましてね。敷いた丸太の上を、ゆっくり三日ぐらいかけて引っ張ったんです。キリンビールが入っていたビルを移動した時は大学の先生方も見学に来ましたよ。うちの住居も、もっと表通りにあったんですがここまで移動しちゃいました(笑)。今じゃ考えられないような大胆な計画で、なんだか面白いですよね。

――長く住んでこられた一番町ですが、どんなところがお好きですか?

やっぱり人情味でしょうね。助けあったり、お総菜を分けあったりしたものですよ。七夕を始めとして、お祭りや行事には町ぐるみで参加し、みんな家族のように笑いあったものです。

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昭和32年、七夕前日の一番町。
手作り飾りの風流な味わい。

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昭和31年、七夕の今徳酒店。

●七夕飾りや暮らしの知恵を教える「今井のおばあちゃん」

――今井さんの母校でもある東二番丁小学校の生徒からは、今でも「今井のおばあちゃん」と親しまれてるそうですね。

生徒たちに、もう10年以上、七夕飾り作りや折り紙、昔の暮らしや、生活道具の知恵を伝えているんです。

七夕飾り作りでは、仙台七夕に昔から伝わる「七つ道具」などの意味も一緒に教えてあげます。でね、材料は何も新しく買わないで、箱や包装紙を持ってきてもらうんですよ。子どもたちに“全部家にあるもので出来るよ”って、物を大事にすることを教えてあげるの。

そしたら、今の仙台七夕では、東二番丁小学校の横に観光バスがいっぱい止まるでしょう?子どもたちは七つ道具を説明したビラを作って、バスから降りたお客さん方に配ったんですよ。すると、お客さんたちからお礼状がいっぱい届いたんですって。

――長年の活動に対して、子どもたちからの礼状が、いっぱい届いているそうですね。

「ありがとう」って奇麗な感謝状が届くんですよ。運動会・学芸会の招待状、私の誕生日には全校生徒がお手紙をくれました。私、ひとつひとつすべて大切に保管しているんですよ。

私はね、東二番丁小学校に行くといつも、シンボルのくすのきの葉を拾って押し葉にするんですよ。この木は空襲の時に焼けたんですが、なんと3年後に芽を出して、再び今の大きな姿になりました。

学校で教えた時に余った小さな紙片を、私は大切に取っておいて鶴に折りましてね。6年生が卒業するときに「豆鶴になるまで使えたよ」って、一人ひとりに贈ることにしています。ここにね、「くすのきの様に強くね」と書いた押し葉も入れるんです。東二番丁小学校をずっと忘れないで、そして、みんな逞しく成長してほしい、そんな想いを込めましてね・・・。

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昭和7年の東二番丁小学校。左の建物は幼稚園。
くすの木も見える。

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東二小、楠の押し葉と折紙のプレゼント。

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子どもたちからのお礼状。

 

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今井喜代さん

大正8年、一番町生まれ。昭和25年にぶらんどーむ一番町に今徳酒店を開店し、界隈では「今井のおばあちゃん」と親しまれる。東二番丁小学校、そして宮城県立第一女子高等学校に進んだ生粋の一番町っ子。ちなみに、実家の横山めがね店は、明治21年、名古屋の武士・横山昇之助義則が銀座勤めを経て仙台に興した名店。土井晩翠、東北帝国大学の熊谷岱蔵、本多光太郎などにも愛用された店として知られる。

名前 コメント 投稿日時
元寺小路 今井様のお話にとても感銘を受けました。ありがとうございました。私は元寺小路に生まれ、今井様と同じように東二番町幼稚園、東二番町小学校から五橋中学校、仙台一高と小さい頃から一番多感な時期を仙台で過ごしてまいりました。大先輩の今井様のお話は、私が知る由もありません。しかし私なりに自分の仙台の記憶と今井様のお話を重ねているうちに、まるで時代を飛び越えて二つの仙台を同時に見ているようななそんな楽しい時間を過ごすことができました。焼け跡から芽を出したくすのきの話をすっかり忘れておりました。重ねてお礼申し上げます。今でもその話が先生から生徒へと語り継がれていることを願っているところです。 20090221