(平成21年3月15日発行 仙台Travisより)
勝山公園近くから見る愛宕上杉通り。
まっすぐ南下すると仙台駅前の青葉通りと交差する
宮城県庁の北側と東側に位置し、歩いても数分の上杉・錦町界隈。
住宅とマンションが閑静な佇まいをみせるこのエリアは藩政時代、中堅の家臣が住んだ町である。かつては屋敷の塀からは杉や樹木の緑が顔を見せていたであろう。
勝山公園から勝山館、そして平成17年に移転はしたが造り酒屋「勝山」の建物がつくり出す景観には、今もかつての風情をイメージすることができる。
外記丁、同心町、長丁…。当時の地名と由来を思い起こしながら、散歩を楽しみたい。
魯迅も通った「空堀丁」ってどこ?
「錦町」は懸賞公募で決まった
昭和8年大日本職業別明細圖(仙台市歴史民俗資料館所蔵)
上杉・錦町エリアは学校も多く、学都仙台を形成した地域でもあった
今でこそ上杉一丁目、二丁目、錦町一丁目…という住所になっているが、それは昭和40年代になってからの呼び名。
このエリアには消えてしまった旧町名、通り名がいくつもある。
住所からは消えても「空堀丁町内会」など、町内会名やビル名、マンション名には今もその名残りがある。
ちなみに「空堀丁」とは、現在の錦町一丁目周辺で、排水事情が悪かったために掘られた空の堀があった町なのでこう名付けられた。
文豪魯迅の恩師・仙台医学専門学校の藤野教授がここに住んでいたため、あの魯迅も通ったという。
勾当台通りと愛宕上杉通りが交差する角にある仙台市錦町庁舎。
その庁舎上階にある住宅には「仙台外記丁市街地住宅」という名が付いてる。「外記丁」は伊達藩家臣で武勇伝を残した齋藤外記の名前に由来する。現在の錦町一丁目から上杉一丁目あたりである。
その外記丁の東側、錦町にあるNHK仙台放送局周辺は「同心町」と言われた。町奉行の配下で、町の治安にあたっていた役人である同心の屋敷があったことから付けられた。
その同心町から東六番丁の突き当たりまでは、東西一直線の道は「長丁」と呼ばれた。しかしながら、長町が仙台市に合併された昭和3年以後、「長丁」と「長町」が混同され、郵便物の誤配が増加。そのため昭和10年、「長丁」に代わる名称が懸賞で公募され、一等に当選したのが「錦町」だった。
このエリアでは400年も昔の歴史に由来する旧町名が多い中で、この錦町だけは、まだ生後74年というわけである。
錦町公園内に立つ
「同心町中丁」の辻標
(左) 宮城県警本部前に立つ
「外記丁・長刀丁」の辻標。
(右) 錦町2丁目の通りに立つ
「空堀丁通り」の標柱。
松、柿、栗…。屋敷の緑が「杜の都」の景観を形作った
宮城教育大学付属小・中学校や県立盲学校がある上杉6丁目エリア。
緑が豊富で閑静な通りは杜の都に住んでいる実感を与えてくれる。
仙台の武家屋敷は他の城下町の屋敷の大きさと比べて広く、家屋は敷地の一割程度だったと言われ、十分なゆとりがあった。
そこには杉をはじめ桃、柿、梨、栗などの樹木が植えられていた。
街並の豊富な緑、青葉城を囲む緑、そして城下を囲むように建てられた寺院境内の緑。
これらが連続して「杜の都」と言われる景観を形成していった。
中堅の家臣が住んだ上杉・錦町にも武家屋敷が並び、様々な樹木を植えていた。
明治維新後は武家屋敷が分割され借家に変化していったが、北番丁(上杉エリア)・東番丁は住宅として引き継がれた屋敷が多く、藩政時代に植えられた樹木もそのまま引き継がれた。
それらが「杜の都」と言われる景観を成していった。
子供たちの歓声が聞こえる憩いの場
今も漂う屋敷町の風情
子供たちが遊び、大人が憩う勝山公園
勝山館に隣接する「勝山公園」は、伊澤平左衛門が伊澤氏別邸勝山館庭園を近くにある小学校などに通う子供のため、日曜日に解放したのが始まり。
昭和に入り、仙台市に寄付。昭和60年には道路拡張で削られた公園敷地分を再び寄付した。
仙台市内では西公園、榴岡公園に次ぐ古い歴史を誇り、庭園だった往時の面影を残す大木は、春は桜、秋には紅葉で楽しませてくれる。


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