仙台にゆかりのある人物を題材にした歴史小説を検索すると、そのほとんどを伊達政宗公関係のものが占めている。そんな中、子母澤寛、大佛次郎、早乙女貢と言ったビッグネームが仙台藩の一人の男を主人公に小説を書いている。その男とは細谷十太夫である。
江北散士編『烏組隊長細谷十太夫』によると、十太夫は天保十一年九月に北三番丁で生まれ、若くして読書、習字、剣槍などを学んだが、何一つ上達したものがないそうだ。そんな十太夫だが、仙台藩作事方(土木係)、京都御所の警備兵などを経て探索方に抜擢される。
探索方とは、軍事探偵のことであり、彼は東北の諸藩に潜り込み、幕末の変化著しい情勢を偵察し続けていた。そして、探索の中で十太夫は白河落城という信じられない情報を耳にする。
大いに憤慨した十太夫は、自らの手で白河を奪還する決意を固めた。十太夫は探索という隠密任務の中で知り合った博徒や運送屋などを率いて一隊を編成することを思いつき、昔から馴染みの博徒に声をかけ、次々に街の荒くれ者達を仲間に引き入れていった。
さらに十太夫は須賀川の柏屋という女郎屋の建物を借り受け、仙台藩細谷十太夫本陣という大きな張り紙を出して兵を募った。その結果、十日余りで50人を超す隊員が集まり、藩も彼らを無視できなくなり、彼らに『衝撃隊』の名を授け正式に仙台藩の部隊として認めたのだ。
十太夫率いる衝撃隊は全身黒ずくめの衣装をまとい、カラスの旗を立てて戦った。そのため、彼らは『烏組』と呼ばれ、一説には本当にカラスを連れて戦っていたとも言われる。烏組は博徒などの集まりだが、むしろ武士よりも度胸が据わっており、彼らが得意とした夜襲は薩長軍を恐怖のどん底に陥れた。
彼らは夜ごと薩長軍の拠点を襲い、寝ているところを襲撃された薩長軍は狼狽して逃げ惑うばかりであった。『細谷からすに十六ささげ なけりゃ官軍高枕』という歌が残っているが、これを見るといかに烏組が薩長軍の脅威になっていたかがわかろう。(十六ささげとは、棚倉藩脱藩兵の一隊)
義を重んじる奥羽越諸藩であるが、戦争は必ずしも正攻法で勝てるほど甘いものではない。十太夫率いる烏組が仕掛けるゲリラ戦は、列藩同盟側に数少ない局地的勝利をもたらし、大いに奥羽越諸藩を勇気付けた。しかし、十太夫一人の手では戦局を逆転させることは到底不可能で、白河奪還の目標は最後まで達成されなかった。
烏組の奮闘虚しく低迷する仙台藩を、さらに追い立てる薩長軍。だが、列藩同盟は何もせずにただ負けを待っていたわけではなかった。この後、思いもよらぬウルトラCで大逆転を狙うのである。
さて、戦後の十太夫であるが、北海道の開拓、西南戦争、日清戦争への参加、南洋探検などを経て仏門に入り僧となる。かねてより尊敬していた林子平の墓がある龍雲院の住職となった十太夫は、明治四十年五月に没する。

龍雲院 細谷十太夫の墓
子平町にある龍雲院を訪れると、林子平の墓の脇に細谷十太夫の墓がある。そこには、『負け知らずで有名な伊達藩隠密鴉組大将細谷十太夫の墓』と記されている。さらにこの龍雲院には『細谷地蔵』という座像があり、その姿は十太夫そのものであると言われている。

細谷地蔵
このお地蔵さんはいつからか十太夫の連戦連勝にあやかろうとする受験生の人気スポットとなり、今でも受験を前にした学生が合格祈願の願いを込めて十太夫の体に触れる光景を目にすることが出来る。十太夫は今でも仙台の人々に勇気を与えているのである。
つづく


※承認まで数日かかる場合がございますので何卒ご了承ください。