テレビをつけるといよいよ混迷を深める政治の話が盛んに報道されている。自民党、民主党、どちらが勝つか。その類の話は昼間の定食屋でも話題の主役に躍り出ている。
さて、その自民党に民主党、それに他の国会議員の顔ぶれを見ると、元々自民党だったのに今は民主党にいる議員や、党を飛び出て独立した議員、一度党を飛び出したのに戻った議員などなど様々だ。造反、離反、離党、連立と各自の思惑が複雑に渦巻いた結果そうなったのであろうが、人というのはある程度数が集まれば必ずトラブルを起こすものなのだろう。
その事は、戊辰戦争を見ても言えるのだ。薩長を迎え撃つべく結成された奥羽越列藩同盟は実に31もの藩からなる巨大組織であった。
このように大きく、さらに寄せ集めの組織というのは順風のときには綻びが見えずとも、一たび逆風が吹き始めると途端に土台がぐらついてしまうものだ。
列藩同盟は意気揚々と打倒薩長の旗印を掲げたわけだが、白河防衛に失敗し、さらに薩長軍が兵力をどんどんと増強するに至り、その結束は徐々に弱まっていったのである。
同盟の盟主である仙台藩は、離反する藩が出ないように警戒を強めた。
そんな折、秋田藩が不穏な動きを示したため、仙台藩は11人の使節を秋田に派遣しその意思を確認しようとした。その頃の秋田藩は大いに揺れていた。
薩長側に付くべしと訴える者と、列藩同盟との義理を果そうとする者が毎夜激論を交わしていたのだ。そして、最終的な秋田藩の態度は仙台にとって最悪なものとなってしまった。
使節11人は全員斬殺され、秋田城下に首を晒されたのである。余りの出来事に仙台藩首脳陣は愕然としたであろう。
仙台藩はすぐさま庄内藩や盛岡藩に秋田討伐を依頼し、仲間同士の悲しい戦いの火蓋が切っておとされたのだ。

秋田藩との戦いで命を落とした盛岡藩士の碑
戦争も末期に至り、離反する藩は秋田のほかにも多く出てきてしまう。三春藩、新発田藩、新庄藩に弘前藩。このコラムでは仙台藩からの視点で話を進めているので、仙台から見れば裏切られたということになるのだが、裏切ったとされる諸藩も、自分達からすれば色々な事情があっての離反であって、今挙げた藩が必ずしも義に欠けるとは私は思わない。
しかし、これらの藩が離反した事実は戦況をさらに絶望的に悪化させた。八方塞がりに追い詰められた仙台藩。首脳陣はいよいよ本土決戦に踏み切るか否かの選択を迫られることとなる。

地蔵にめり込んだ弾 秋田県大館市
さて、この戊辰戦争は戦後にまで深い禍根を残すこととなってしまった。仙台からすれば裏切られた秋田や、薩長に降伏した後に彼らの命令で仙台に侵入した相馬との間に深い溝が出来てしまった。
私の知る限りでも、未だに秋田を快く思っていない仙台のお年寄りの方は少なくない。そして、このような禍根は仙台だけに留まらず、二本松と三春、会津と米沢、庄内や盛岡と秋田などでも残っているようで、各地の歴史家の方のお話を伺うと、必ずそのような話題を耳にする。
しかし、歴史は歴史で過去の話である。歴史を学び、自分が生まれ育ったり、自分が住んでいる地域の過去を知ることは非常に大事であるが、それにとらわれて現在の関係までギクシャクさせることは建設的とは言えない。これは現在の東アジア情勢にも共通して言えることであるが、過去を踏まえた上での未来志向こそが発展のために求められていると思う。
道州制という新しい枠組みが誕生する日も近いとされる今、東北が団結する必要性を強く感じる。そんな中で、仙台は今も幕末当時と変わらず東北の盟主である。仙台には東北をリードしていく義務があるのだと思う。
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